さわやか法話 14    敬老の日

  九月を迎え暑い夏がうそのように、さわやかな風が吹いています。 敬老の日も間近、親と子と孫と、通い合う情愛の絆がどうあるべきか、 そんなことを考えています。あるお檀家さんの、心温まるエピソードをご紹介しましょう。
 「家のおふくろの一生を考えると、幸せじゃなかったと思います。 もって生まれた引っ込み思案の性格もあるが、そうさせてしまった親父の陰にばっかり隠されていて、 よその年寄りみたいに、旅行に行くなんてことは一度もなかったし、 外へ出ても一晩も泊まってくるなんてことも無かったくらいだから・・・・」と 今、49日の墓参りを済ませて息子さんが、亡き母を偲びました。 そしたら側にいたそのお母さんの妹だという人が、「わしら明治生まれの女の人は皆そうだよ。 苦労は多かったが、ここの姉さんは幸せのほうだよ。 だってこんなにいい息子さんと嫁さん、そしてやさしい孫に囲まれていたんだもの」とつぶやきます。 そして、和尚さん聞いて下さいとその高校を出たばかりのお孫さんのことを語ってくれました。 年老いて、脳軟化、老人ボケに犯され、足腰も自由にならなくなったお姉さんを、お見舞いに立ち寄ってみた。 その時、病人は用を足していた。病人用の便器に座らせ、老婆の介護をしていたのはその孫なんです。 まくりあげた着物のすそを手でささえ、きれいに拭いて後の始末までを済ませてやって、 かかえるように病床に運んであげていた。男の子の孫がですよと涙ぐんでいるのです。
 「看病福田第一」と説かれています。
 家に病人の居る場合、その病人の看病をすることこそ、大切な人の道、仏の教えであり、 福田、つまり幸せになるその田に種まきをし、幸せになる大切な行いということです。 「姉さんは幸せだった」とのつぶやきが、しみじみとうなずけるのです。 そうして老婆を一生懸命に看病できるその心は、どこから生まれてきたのでしょう。 人の命がいかに大切であるかを知っている、それが敬老です。 そんな尊い心はどうやって躾られているのか。このお宅は親と子と孫と、 ”福田”という心の田を耕し続けてきているからでしょう。

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