さ わやか法話18   喫茶去

 とてもお茶のおいしい季節です。 私の本山修行時代からの友人が、有名な茶所、静岡県川根町に住職をしておりまして、 毎年、今頃になると見事な新茶を送ってきてくれるのです。 「君も忙しくあくせく動き回っているでしょうに、まあ、一服してまずは喫茶去だよ」という友、 遠方よりのメッセージでもあるわけです。
 ”喫茶去”、よく知られた禅の言葉です。去は去るという字ですが、助辞であってあまり意味はなく、”喫茶去”は”まあ、お茶でも召し上がれ、まあ、一服 しなされや、といった意味合いです。 しかし、これがなかなか意味が深い。 
 中国禅宗史上の傑僧、趙州和尚の所に若い雲水が訪ねてきては、 仏法の極意とは何でしょうか、禅の教えとは、と問答をしかけてくる。 すると趙州がきまって答えるには”お前さんは以前にここに来たことがあるのかい!”と。 雲水たちは趙州和尚が問うのだから何かもっと深い意味があるのかと思い、 雲水たちの答えは「ある」とか、「無い」とかしどろもどろになる。 そこで趙州が言う、「喫茶去」”まあ、お茶でも召し上がれ”。
 趙州の言いたいことは、禅の修業というものは、ことさらに特別な、 奇異なことをするのではない、お茶を飲むという日常的な行為のうちに禅の極意はある。 つまり、お茶を飲む時はひたすらお茶を飲む。仕事をする時はひたすら仕事、勉強の時は学ぶことにひたすらになる。 行住坐臥、そのことにひたすらに打ち込む、私たちはまずそのことから始めるべきだと趙州は言いたいのです。 ところが、私たちは、仕事をしながらお茶を飲み、会議をしながらコーヒを飲む。 タバコをくわえながら心はうわの空、とながら族なんですが、こんな調子ではどうもゆとりも充足感もありはしない。
 皆さん、まずは”喫茶去”、一服お茶でも飲みながら、そんな生活ぶりを振りかえってみては如何でしょう。
                         (栄雄)