「無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん。身已に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし。・・・・・」 《修證義第一章二節》
私は巣立っていってしまった子供たちのことを想い出して、たまに、幼い頃のスナップ写真を開いてみることがある。あどけなさ、無邪気さに私の胸はキュンと熱くなる。そして、側に写っている女房の、私の、何と若いこと。ああ、年をとってしまったなあと思う。「紅顔いずくへかさりにし」とつくづく思い、年月の流れを愛しく、淋しく振り返る。そう思いながら、さて、自分はどう変わってきているかと振り返ってみると、案外、自分が変わってきていることに鈍いもの。心の奥底では、けっこう若いつもりでもいるし、正直、色んな面で未熟であることに気がつく。「無常」・・・この世の全てのものは移り変わる中、これがお釈迦様が説かれた真実である。それを頭で理解することは、それほど難しいことではないはずである。
今、盛りの桜花は明日には散る。私を可愛がってくれた隣組の年寄りたちも、幾人も姿を消している。友達も私も、肉体は確実にガタがきている。ことほど左様に無常の真実は見えてくるのだが、難しいのは、人ごとでなく、自分のこととして痛切に実感することではなかろうか。
『露の世や 露の世ながら さりながら』・・・・・・一茶が幼子を亡くした時の絶叫である。この世は露のようにはかなく、むなしいものであり、生者必滅、会者定離の理は充々承知でも、さりながら、さりながらの悲哀だと一茶も言う。無常を自分のこととして実感することは、決してなまやさしいことではない。その証拠に、私たちは毎日毎日の一時を、何とだらだらと送ってしまうことか。もっと、かけがえのないこの一日を、味わい深く真剣に生きなければなるまいと思う。
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