石川啄木の「悲しき玩具」 誰か我を思う存分叱りつくる人あれと思う何の心ぞ。
岩手県の山村、常光寺というお寺の長男として、貧しく生まれた啄木は、野心に燃えて上京したものの、困窮にうちひしがれながら、病める犬のように、さすらいみちを歩まなければなりませんでした。ことさらに、激しい感情の持ち主だった彼は、時に物をたたきつけて、ぶち割ってしまいたくなるほど怒り、時に歯ぎしりして、その不幸と戦わなければなりませんでした。“歌は私の玩具である”といい、「悲しき玩具」と題して、まとめられたこの詩の中で、自らの生活のウラのウラまで、素直に告白したのです。しかし、その強さ、弱さの別はあっても誰もが一度ならず感じとる、この気持ちは、自らを省みて知ることができるのでありましょう。そして、へまなことばかりして、すること、なすこと、アテがはずれ、ムシャクシャした気分に充ち、頭をかかえこんでしまうような日、その愚かさを思う存分に叱り飛ばしてくれるようにと願うときが、きっとあるでしょう。それは、あなたがあなたに語りつげる偽りのないことばでしょう。 |